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独立無職の宇宙に吸い込まれて死ぬ

Web制作を生業にしているので、いつでも独立の夢を抱いて生きている。

独立の夢とは、しがない会社員のお慰みだ。理不尽な圧力や実らぬ努力の無力感を感じた時に、「俺だって独立して、いつかは…」と自分をなだめる。独立した時のための勉強だと自分に言い聞かせて職務に励むのだ。輪廻転生があるインド仏教に近い。


仮に独立したらどうなるだろうか。

定期的にお金が入る仕事があるならいいが、独立してからそれを得るとなると相当厳しいだろう。収入がない中で努力を重ねる根性が試される。


独立と言えば聞こえはいいが、まとまった収入がなければ無職だ。世間は借金には寛容だが、収入がない者には厳しい。いわゆる「信用」がないとされ、アパートを借りるのにも難儀する。カードも契約できない。恋人にもふられ、家族に疎まれ、犬に追いかけられ、豆腐屋の角で頭をぶつけて死ぬ。

その時、豆腐屋の角で何を思うのだろうか。ツラくても会社に所属してみんなで愚痴を言いながら働いていた時が楽しかった…と思うだろうか。


大切なのは自分の身の程を知る事だ。夢を追うなと言うことではない。夢を含めてどこまで歩いていけるか想像しなくては死んでしまう。自分の身の丈を把握することに関しては、バカほど向き合う事を拒否するが、決して悪い事ではないと思う。我々が金持ちやエリートだと思う人間だって、もっとその上を見てホゾを噛んでいるのだ。

「レベル」は問題ではない。大切なのはQOLの向上。努力の肯定感。意思決定が自己にあること。


でもそれがないから、会社員生活にウンザリしてるんだよなァ。

会社辞めよっかな。

イヤイヤ期 Terrible Two

イヤイヤ期。

それは、急にやってきた。

一歳7ヶ月くらいだろうか。「着替えようか」というと「しない」と言うのである。

「お散歩行く?」「ちやう(違う)」

「ベビーカー乗る?」「ちやう」


タイミング的には、今までやっていた事をやめて他の事をしようと言った時に多い。「(そろそろ保育園行くから)靴下履いて」と言うと「しない」と言う具合だ。

二歳手前と言うと、ある程度内容のあるおしゃべりが出来るようになって、教育テレビの体操なんかが真似出来るようになる頃だ。今までは時系列が理解出来なかったが(例えば、保育園を退園したあとに、◯◯先生と何して遊んだの?と聞いても回答がない)、記憶から出来事を引き出して喋ったり暗記した内容で絵本を読んだ(ふりを)する。


突然やってきたイヤイヤに面喰らったが、嫌だ嫌だと言われるうちに、これは成長過程の予定された現象なのではと思い始めた。イヤイヤをすることによって、他者との関係性を構築しているのでは。犬がじゃれることで力加減を覚えるように。


イヤイヤがハードな時は、親である私も怒る時が

ある。「そんなにパジャマがきたくないならもう捨てちゃうからね」年端もいかない子にそんな残酷な事を言って本当にゴミ箱に捨ててみた事があった。

一瞬押し黙って考えたのち、ゴミ箱からパジャマをそっと取り出した。さっきまで着たくなくて叩きつけていたパジャマなのにだ。そしてなにも言わず、パジャマを着る事を受け入れ、全て着た後にハグをした。それなりにしんどかったのだろう。


自己の意見を主張し、他者の意見を否定するのは自己と他者が別の人間であることを受け入れることだ。イヤイヤで意見を主張すれば、それは親と自分がある意味では他人であることを受け入れる大切な人間的な過程だ。

イヤイヤが独立した人間となる為に成長する最初のステップと思えば、恐ろしい絶叫も少しは笑って見守れるようになるかもしれない。

知性と妄想性

通常、知性とは「知性が高い、低い」のバーチカルな多寡で考えられていることが多いと思う。


しかし最近思うのは、そうではなく、「知性の大小」とは別に「反知性の大小」という概念を考慮したほうが辻褄があうのではないかという考え。

反知性、愚性、妄想性、呼び方は決めてないが、つまりは「誤った知識の蓄積」の大小。知性は多いほど賢いといえるが、妄想性は多いほど愚かだと言える。

誤った知識とは、単純な間違いだけではなく、根拠のない民間療法や、アニメや小説などのフィクションへの傾倒(現実ではないから)、病的な被害妄想などを含む。

我々の脳には、意識を意図的に現実から引き離す能力を持っている。誰でも実際より自分を過大評価するように出来ているし、将来はある程度楽観視されるようになっている。生きる為のバランス戦略だ。

だが、過度な自己肯定や現実無視、自分の世界を守る為の被害妄想、器質的な問題で妄想性が増大していく。アニメーション会社や高級ブランドによって植えつけられた現実無視のイメージ(いわゆる世界観)もある。


こうして、我々の脳に反知性ともいえる妄想性が育てられていく。育てば育つほど、現実的な人生を否定していくのが妄想性だ。ある程度育つと、妄想性なしには生きられなくなるので抜け出せなくなる(アルコール中毒と似ているのは、アルコールが体の水分を奪うために更に飲みたくなる点だ)。


フィクションや慰めが日々の生活を癒しているのはよく理解できる。しかし、いつか「リア充」を憎む日が来る前に、現実と向き合い現実の知識を深めることを心がけたい。

箱膳に戻る

どうでもいい雑記ブログを作ろうと思い立ちはてなでブログを設定した。


移動中にiPhoneで音楽を聴いていた。普段はアレで落としたmp4を聴いていたのだが、iTunesアプリだとホーム画面で長押しすることによっていつも聴く音楽にすぐアクセスできることに気づいた。

iTunes課金プラスAirPodsで相当ストレスフリーに何も考えず音楽が聴けるのではないか。Appleのクローズドな世界に浸ってしまうけど。


こうしてなるべく何も考えないで生活できる方向にライフスタイルが向かってるのではないか。

今までは、肉体労働を減らすために色々な開発が行われていたと思う。でも、もはや肉体労働は日本の生活にほとんどない。デスクワークや接客が増え、人間関係が煩雑になり、安定企業で働くということが人生の目標にならない。

家族設計も、結婚は面倒で独身を楽しむ人生も歓迎されている。こどもも少ないほうが有利だし、「家族でだんらん」も減るだろう。


ちょっと昔まで、日本の食卓にはテーブルもちゃぶ台もなく、一人一人に定食が割り振られる「箱膳」が基本だった(らしい)。

これからのだんらんでは、通販でワンタップの箱膳のサービスが台頭し、家族それぞれが好きな定食を選び、料理などの家事はあまりせず、夜は今より早めに寝る暮らしが来るのではないか。

結局、人間関係賞賛の理想から箱膳の暮らしに戻っていくのではないだろうか。


云々